私がセラピストになった理由 3

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夫の暴力の矛先が他の人に向いては困る、という理由と、
逃げるからには絶対に誰にも見つからないところへ行かなくてはいけない、
という理由から、実家を頼ることはできませんでした。

また、「すべて私が悪い」という考えがこびりついているので、
女性保護シェルターに駆け込む、という選択もできませんでした。
その行動は「夫が悪い」と言うことになると思っていたからです。

それに、「離婚」というアイディアは、選択肢にすら上がりませんでした。
離婚はありえないという約束を彼としていたことと、子どもの存在からです。

怪我をした足を引きずりながらたどり着いた、長期滞在型ネットカフェで三週間。
動けなくてもできるチャットレディーの仕事で食いつなぎました。

その間にネットを使って見つけた、知人が誰もいないだろうと思える田舎の
温泉宿に、住み込みの仲居として雇ってもらいました。


自分がDVの被害者なのかもしれないと、本当に思えたのは、
それからすでに3ヶ月経った頃でした。

仲居仲間には、一人一人を主役に映画が作れるのではないかというくらい
それぞれに壮絶なドラマがありました。

苦しんできたのは、私一人じゃない。

そう思って、彼女たちに自分の話をするようになったのです。

「あなたは間違っていない」「あなたのせいではない」
という言葉をかけてもらっている間に、少しずつ自分を取り戻していきました。

そして、実家に戻り、弁護士さんにお願いして、離婚が成立します。

恐怖に支配されていた私は、とにかく彼から離れることを優先して、
「親権を父親に」という条件を飲んで、子どものことをあきらめました。



離婚が成立してからも、私の中は恐怖でいっぱいで、
外出すると、ビクビクしていました。

テレビのニュースや電車のつり革広告から暴力を思いだして怖くなり

宗教の話をきけば洗脳されていた自分を思いだして怖くなり

家族連れを見ては自分を母親失格だ、人間失格だと責めて、
子どものことを考えると苦しくて申し訳なくて、一歩も動けなくなりました。

毎晩深酒をして、神経を麻痺させていました。


このままでは、私は生きていけない。

なぜ、彼があそこまでの暴力を振るうようになってしまったのか、
なぜ、私はそれを受け入れ続けたのか、なぜ暴力は悪化したのか。

そのメカニズムを知りたい。 理解したい。
分からないと、これ以上前へ進めない。



目に入ってくる耳に聞こえてくる情報が多すぎて苦しくて、
日本から離れたい、そう思うようになった頃、
一時帰国中のカナダ移民と知り合い、心理療法ならカナダだと勧められました。

私は、とにかく今の自分から逃げたくて、行き先も決めずカナダへ飛び、
そこで心の勉強ができる場所を探し、
LANI HOLISTIC ACADEMY of CANADAと出会いました。


「よく、頑張ったね」

「もう大丈夫」

「十分よくやったよ」



LHAC代表の Saki Tran や、彼女の元でセラピーを学ぶ仲間からの暖かい言葉が
一気に私をとかしていきました。

私は彼女からセラピーを受けながら進むセラピストの勉強の中で、
自分を追い詰めたものがなんだったのかを知り、それは手放せるのだと知り、
身体の隅々まで染み付いていた恐怖を、たった半年で抜き取ることができました。




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